Gerald Levert~James McNew

7月11日、Gerald Levertが生きていれば49歳の誕生日を迎えたであろう日。

ラジオでも、ブログでもあまり取り上げないUSのR&Bやソウルミュージックだけど、実は大好きで、ジェラルドは、80年代半ばにLevertで世に出て、僕はちようど1990年前後、New Jack Swing期に出会ってから、その後のLSG時代、ソロになってからも、全てのアルバム持ってるわけではないが、ずっと聴いていて、父親である、The O’Jaysのメンバー、Eddie Levert譲りの歌声を聴かせるヴォーカリストだけでなく、ソングライターとしてもそうだし、Men At Largeなど若手を発掘し、世に送り出したりもして、ずっと見逃せない存在のひとりだった。

2006年の11月に心臓発作で急死。

いつも書いてるけど、亡くなったときだけ話題にしたり、ていうのが苦手で、もちろん、亡くなったことがキッカケで聴くようになったは、いいんだけど、それだけで忘れていくのは寂しい。

個人的には、何年経とうと聴き続けたいし、何かと話題に出したいと思ってる。最近、またよく聴きなおしていて、1991年の「Mr.Too Damn Good」など、グッとくる。

この曲はジェラルドが亡くなる前、2003年にDumpがアルバム『A Grown-Ass Man』でカヴァーしていて、これがまたたまらない。(このアルバムではThin Lizzyの「Cowboy Song」も取り上げていて、こちらもまた素晴らしい出来)

ダンプはYo La Tengoのべーシスト、James McNewが、Yo La Tengoに参加する前から活動しているグループで、現在まで何枚かのアルバムとシングルをリリースしているんだけど、2001年には、まるまる一枚全てPrinceの曲のカヴァーというとても素敵なリヴュート盤も出している。ここでもそうだけど、ジェームスの歌声は”ソウルフル”という形容詞からは、ずっと離れたもので、どちらかというとNeil Young系列のへなへな声。

それが愛情たっぷりに大好きなソウルナンバーをカヴァーしたときに、とてつもなくいい塩梅になる。もちろん原曲への想いだけでなく、アレンジのセンスが抜群だというのもある。

Yo La Tengoも、自身のラジオ番組放送中に、生で演って欲しい曲のリクエストをつのり、その場でカヴァーするという企画盤を出してるし、この辺り、やはりセンスが良い。

Dumpに関しては、現在ほとんどが入手困難ではあるけど、まだ聴いたことがなくて、気になる方は是非探してみて欲しい。※)ここでレコードになつていない音源も聴けるので貼っておきます。Jonathan RichmanからSun Ra、Princeも。

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ

Vol.2 終了

DISCO NIGHT Vol.2 無事終了。

今回は早々に参加表明が30名を超えてたので、積極的に宣伝しなかったことの事後報告。

今回も後半から回しで、21時過ぎから。以前に書いたように当日が命日のTommy Ramoneに敬意を払って、76年、LAはロキシーでのライヴからもRamones 「Britzkreig Bop」でスタート。ライヴで続けて、Manu Chao 「Bienvenida A Tijuana」 ここからルンバ・フラメンコ~ラテン、クンビア、カリブ、シァアビ、ボリウッド、カンボジアン・ロック etcで約2時間。

トイレが共同なのは、ちと難ではあるけど、やっぱり路面店でのDJは楽しい。

8月は、熱すぎるのと、お盆も鑑みて、次回の開催は9月一週目の土曜日、9月5日に内定したんで、また詳細はイベントスケジュールに載せます。

次回のテーマは9月後半に来日のトミ・レブレロのミニ特集とタンゴやアルゼンチン、ウルグアイ、チリ、コロンビア、メキシコ、プエルトリコなど南米音楽を中心に踊れる曲で選曲する予定です。恒例の個人テーマは、9月5日が誕生日のFreddie Mercuryにちなんだ曲からスタートしようかと(予定)。

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ

Joe McPhee/Cosmic Love

DISC UNIONの大阪店、いよいよ11月、梅田にオープンとのこと。

だから、ではないけど、ユニオンのネットサイト徘徊してたら、なんと! というブツを発見。 長い活動歴の中、メジャーレーベルでのリリースがほとんどないこともあり、多作の割には入手困難が多いJoe McPhee。

その中でも個人的に好きな曲があって、それが「Cosmic Love」。その曲が、7インチシングルで再発されるとのこと。しかもまだ普通に「在庫あり」になってる・・・

早速発注して本日着。

こんな曲の再発をシングルで、しかも7インチって、正に僕にむけてなのかい、と言いたいくらい。日本人で、これを喜んでるのってオレ以外に誰が居るんだ! そう叫びたいくらい嬉しい。

まだ在庫あるようなら、全部買い占めたろうか・・・そんな7月の蒸し暑い夜。

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ

アンコールについて

アンコールについて、T.M.Revolutionこと西川貴教さんが自説を述べている記事を目にした。

僕は西川さんのことは、名前くらいしか知らず、その音楽については何も語る言葉は持っていないけど、この記事については、とてもよくわかる。

西川貴教、惰性のアンコールに苦言、「演る側も義務ではない」

詳しくは↑にリンク貼るので、そちらを読んでもらえばいいのだが、簡単に書くと、西川さんは「基本は本編で全て完結しており、チケット代はこの本編に対して頂戴しております」というアンコールへの持論があり、「更に求められ、それに応える心と心の呼応がアンコールです。本当に求めて頂ければ、いくらでもお応えします。ですから『もっと』のアピールは、強く大きくお願い致します」とライブに来るファンに宛て理解を求めた。」というもの。

僕も以前から言ったり書いたりもしてきたが、惰性やおざなりなアンコールは、CD化に際してのボーナストラック並に不必要だと考えていて、それでも本編のライヴがとても素晴らしく、その熱が冷め難いとの気持ちが高まったとき、アンコールを求め、それに演者が応えるのは、コール&レスポンスの、とても幸せな形だと思っている。

以前に大阪、心斎橋のJANUSで主催した、友川カズキ「復讐バーボン・レコ発ライヴ」での本編の流れはすさまじく完璧で、ラストの「家出青年」で、僕は感無量、これ以上は要らない、そんな気持ちで、最後列から会場を出て物販スペースへ戻った。こんな気持ちになったライヴはそうそうない。もちろん皆がそうではないのだろうが、僕のように感じたならば、そんな時は、席から外してもいいのではないかと思っている。

恐らく西川さんは、ライヴでは本編に山場も見せ場も集中させ、アンコールは、「おまけ」とはまでは言わないが、それに近い、クールダウンのように位置づけているのかな、とは思う。

その上で、熱く求められれば、全力で応えますよと。 だけど(その熱さの)気持ちを強要しているのではなく、アンコールに応えて出てきても、スマートフォンを弄ったり、臨席の友人らと喋ったりでは、義務でも強要でもないものですよと、あえて言いたくなるのは、とてもよくわかる。

この辺り、ライヴ中の写真や動画の撮影についての、僕のスタンスも何度も言ったり、書いたりしてきたこととも通ずるもの。

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ

Chris Squire

昨夜、そろそろ寝るかと灯りを消そうかという直前、ふと開いたTwitter、知人のツイートによりChris Squireの死を知った。1948年産まれなので享年67歳。

白血病で休養というニュースはチラリと見ていたけど、深刻な様子は伝わってなかっただけに・・・

ライヴで観られたのは一度しかなかったけど、凄く好きなベースプレイヤーであり、歌も好きだった。(Yesの「Leave It」で聴けるハーモニー等、この時期はTrevor Rabinという歌えるギタリストも居たのでコーラスが充実してた)

80年代前半のヒットチャートが音楽の入り口だったので、切っ掛けは『90125』だったけど、この時代に知ったせいか、その以前も以後も、抵抗無く聴けた。

ここ数年、DJでは『Relayer』からBattlesへ、という流れで繋いだりで、改めてクリスのベースの凄さと共に、どの時代を聴いても実感していた、「ああ~クリスのベースこそがイエスなんだ」と。

何度も書いてはいるが、自らが音楽を聴き始めた頃に既に活躍していた人達が逝くのは、これまでも、これからもあること。

もうライヴは観られないが、亡くなったときだけじゃなく、これまでもそうだったように、これからもレコード聴き、何かにつけ話題にしていきたい。

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ

個人テーマ2

天王寺、椿でのDJ、第2回は、7月11日(土)に決定して、ディスコメインな中、前回は「80年代で」というお題もありつつ選曲したんだけど、今回から少しずつ、リミッターを外していこうかと。

で、前回は6月25日が命日だった、Michael Jacksonからスタートが「個人テーマ」だったんだが、今回は7月11日、ちょうど一周忌を迎える、Tommy Ramoneを称えて、Ramonesからスタートしようかなと。

こうしたブログをSNSに、度々貼ることをずいぶん前から控えているので、これも、さほどに多くの人の目に留まらないだろうし。
どんな感じに始まるかは、来てもらった人達だけがわかれば(もちろんラモーンズ知らない人だって多く居ると思うし)いいとも思ってる。

RIP Tommy Ramone from Varco Millar on Vimeo.

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ

Honest Jon’s について

Twitterで見かけて、お気に入りに入れたものの、結構な長文故に寝かしていた記事。

ようやく読んでみて発見、というか・・・少し想像してみればわかりそうなものではあるけど、それでもこうして実際に関わった人達の証言を重ねてみて、様々なことが氷解した。

ロンドンの中心地から少し西、ハイドパークの北にあるポートベロー・ロードは、週末になると最寄りの地下鉄ノッティング・ヒル・ゲート駅から約1キロ近くマーケットで有名な町。映画『ノッティング・ヒルの恋人』の舞台でも有名な町ではあるが、ここには世界中の重度なレコ好きの、かなり多くが知っている大げさだけど”聖地”のような、Honest Jon’sレコードがある。

僕が最後にロンドンに行ったのは1992年で、もちろんその時も、この場所にお店はあったんだけど、当時の僕は存在を知らなくて(広く知られるようになったのはHonest Jon’sがレーベルも始めた2001年以降、インターネットの普及とも重なる)、ロンドンの様々なレコ屋を覗いてみたけど、ここまで足を伸ばさなかった。

現在は、このレーベルから出すレコードは少なからず持ってるし、これからも要チェックなレーベルなのは、おそらく変わらないと思う。

この記事は、そんなHonest Jon’sの創立者、Jon Clare(現在はJohnとスペルとのこと)から現在のオーナー、様々な個性的なスタッフ、レーベルに関わりをもつ、BlurのDamon Albernらの証言からなる、昨年創立40年を迎えた、ロンドンの音楽史の中で多大な影響を与え続けてきたレコードショップの歴史が綴られている。

内容は読んでもらうのが一番なので、ここでは割愛するけど、以前にもここで書いた、Ian Hunterの来日時のインタヴューの中のエピソードと重なる部分もあり、その辺りを少し紹介したい。

70年代後半に、パンク・バンドがたくさん出てきたとき、Mott The Hoopleが、パンクの元祖のひとつ見做され、取り上げられたことについての流れで、こう語っている。(Burrn!2015年4月号より)

「当時、ブリクストンなどにある黒人向けの店では、道端にスピーカーを置いていた。白人向けの店にも同様にしていたね。レコードを買える人がそんなに多くない世の中だったから、そうやって道端でレコードがかかっているのをみんなで聴いていたんだ。パンク・バンドはレゲエをやり、黒人が白人のパンクを聴くようになり、白人も黒人の音楽を聴くようになった。パンクスの中には白人ばかりじゃなく黒人のスキンヘッズもいた。そこがひとつ、パンクの素晴らしいところではあったと思う。」(増田勇一氏のインタヴューより)

で、Honest Jon’sの記事の冒頭、1974年にオープンした当時は、現在の店から200ヤード離れたゴルボーン・ロードにあった。そしてオーナーのClareはこう振り返る。

「あらゆるお客さんが訪れた。たいていの人は貧乏であり、人種や文化背景も様々であったが、この地域のアフロ・カリビアンの人々にとくに人気の店になった。Clareが所有していたレアなジャズ・レコードはすぐに売れ、代わりに別のレコードが棚を埋めた。「ジャズ好きが来るようになった」と彼は言う。「1974年、ゴルボーン・ロードでは、音楽に詳しい年配のカリブ人やアフリカ人の男たちが沢山いたんだ。彼らに多くを学んだよ。テノール奏者の聞き分け方とか、歴史とかね。今度は若い人達が来るようになって、レゲエやスカを求められるようになった。私はそういう音楽はよく知らなくて、ジャズしか解らなかった。彼らはBig Youth、The Heptones、そういったものを求めたんだ」

そして、こう続く。「70年代の西ロンドンは、音楽的にも政治的にも激動の時代であった。Notting Hill Carnivalが60年代半ばにこの地でスタートし、1958年にはこの場所で暴動が勃発した。複数の世帯が一戸に暮らすことも珍しくなく、悪名高いPeter Rachmanが運営するコルヴィル・テラスという、ロンドンの最悪のスラムが1マイル以内の距離にあった。

「人は何か逃避を必要としていたんだ」とClareは言う。「アルコールとドラッグ以外では、音楽があった。音楽はとてつもなく重要だった。人を救ったよ」

誰であっても歓迎される寛容的な雰囲気がこの店には最初からあった。「店の中は安全だ」とClareは言う。「黒人も白人も共存することができた」。1976年のNotting Hill Carnivalにてまた暴動が起きたとき、ここは窓が壊されなかったゴルボーン・ロードの数少ないお店のひとつであった」と。

この店だけがそうだった訳ではないけど、みんなこうやって混ざっていき、知らない音楽にオープンになっていったんだなぁ。TrickyがThe SpecialsやThe CureやKate Bushも聴いていたように、QuanticたるWill Hollandがクンビアに夢中になって、コロンビアに移住したり、挙げればキリがない、こうした音楽の結びつきがあった。

この記事が素晴らしいのは、結びの言葉にもある。それは読んでもらいたい。

Honest Jon’s:大切な場所

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ

Disco Night Vol.2 @ 椿

6月に第一回目が行われた天王寺の裏側でのDJイベント、第二回目が決定しました。

時間が前回より早まり18時から。

僕は後半担当(およそ20時前後から)で、前回は80年代ディスコで選曲したけど、今回はしばり外して選曲したいなと思ってます。

【日付】:2015年7月11日:土曜日

【開場】:kitchen・mama 椿 大阪市天王寺区堀越町15-2 TEL.06-6771-7706

【時間】:18時~23時

【料金】:女性2000円/男性2500円(飲み放題)  Food 400円~ (male ¥2,500/ female ¥2,000 for All You Can Drink)

【問い合わせ】::kitchen・mama 椿 TEL.06-6771-7706

カテゴリー: DJ, EVENT SCHEDULE | コメントをどうぞ

音博・復習編

音博は2007年の第一回から観に行ってて、過去8回のうち5回行ってる。その内、個人的な白眉は一回目の小田和正、雨があがった後の、Taraf de Haidouks。

3回目2009年のBO GUMBO3 feat.ラキタ。4回目は最も印象深くて、二階堂和美、汽笛をバックに「夜汽車のブルース」を歌った、遠藤賢司。ラストの圧巻の「夢よ叫べ」そして、もう大変素晴らしかった、ジム・オルークの歌物バンド。探したけど、その様子を映した動画は見つからなかった。石橋英子、山本達久、須藤俊明といった馴染みのメンバーと共に演奏さける素晴らしい楽曲の数々。このメンバーで関西はなかなかない。特に終盤の「The Workplace」には涙腺グラグラ来た。毎回くるりのライヴも特別なんだが、この年は別枠で、もっくんと大村先輩という元メンバーが加わった、くるり ザ・セッションがあって、このメンバーでの「ロックンロール」はどこまでも美しかった。

そして昨年、くるり/ペンギン・カフェ(from イギリス)/トミ・レブレロ(from アルゼンチン)/サム・リー(from イギリス) ヤスミン・ハムダン(from レバノン)/椎名林檎/tofubeats/サラーム海上によるオープニングDJと語りもあり、個人的にではあるが、最も充実していた回ではないかと思う。

そして今年と続く。

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ

Brixton Celebrates Party – Ghost Town

先週から選曲に絡めて色々聴きなおして、昨日のブログ書いた後に、また色んな動画観てたら、こんなの見つかった。
2013年4月8日に亡くなった、その翌日にアップされているブリクストンの広場での光景。
これがもう、本当に祝ってる。冒頭でThe Specialsの「Ghost Town」が流れるのがまた色んなものがない交ぜになって伝わってくる。個々人の思いや是非は置いておいて。

サッチャーが亡くなった時に、色んな人達の言葉がネットでも読むことが出来たけど、Morrissey(元The Smithsのヴォーカリスト)が、とても辛辣で、以下全文の翻訳を載せてみる。
「サッチャーが今も鉄の女と振り返られているのはどうしてかというと、その決して屈しない頑迷さや他人に耳を絶対に貸さないというまったくもってネガティヴな気質を持っていたからに過ぎません。

サッチャーの行動はすべてがネガティヴィティに駆られたものでした。サッチャーはイギリスの製造業を破壊し、炭鉱労働者を忌み嫌い、芸術を敵視し、北アイルランドの独立擁護派を憎悪しては死なせ、イギリスの貧民を蔑視してなんの救済の手立ても考えず、グリーンピースや環境保護活動家を嫌い、ヨーロッパの政治指導者としてはただ一人だけ象牙売買の禁止に反対し、ユーモアも温情も持ち合わせず、自身の内閣によって最後には放逐される羽目にもなりました。(フォークランド紛争で)アルゼンチン海軍巡洋艦ベルグラノを爆破させろと命じたのもサッチャーでした。ベルグラノがマルヴィナス(フォークランド)島排他的水域の外に出ていて、島から離れる途上にあったにかかわらずです! ベルグラノに乗船していた多くの若い水兵たちが嘆かわしく不当な死を迎えたこの時、サッチャーはイギリスのプレスに向けてガッツポーズを取って見せました。

これが鉄のよう? いいえ。では、野蛮? そうです。女性の権利獲得が進歩したからこそイギリスの人々の大半も自分たちの首相が女性であることも可能だと受け入れるようになったにもかかわらず、サッチャーはフェミニストを忌み嫌っていました。しかし、サッチャーのおかげでイギリスの政治で女性が権力を握ることは二度となくなったはずで、この門戸をサッチャーは自分に続く女性のために開けるどころか堅く閉ざしてしまったのです。

サッチャーはその政権時代に痛みを強いられなかった人たちのみから感傷的に懐かしがられるだけで、イギリスの大半の勤労層はすでにサッチャーのことなど忘れてしまっているし、アルゼンチンの人々は祝杯を上げることでしょう。事実として、サッチャーは人間性など分子ひとつ分も持ち合わせていない歩く恐怖だったのです」

読んだ当初は、大人気ないなぁ、とも思ったし、そんな祝賀ムードの中で、John Lydon(元Sex Pistols、現P.I.L.)の言葉には、大人やなぁとも思ったのも事実。ちなみに以下に全文。
「追悼パーティーの類についてはどうかと思うね。サッチャーの政策はひどいものだったし、俺が若かった頃、そして同じようにあの時代をなんとかして生き抜こうとしていたみんなにとっていろんな大問題とはなっいたのは確かだよ。でも、だからといってみんながいうように俺がサッチャーの墓で踊るってことにはならないんだよ。俺はそういう人間じゃないんだ」

「俺はサッチャーの人生を通してサッチャーの敵であり続けたけど、彼女の死においても敵となるつもりはないよ。俺は卑怯者じゃないんだ。俺の人生はそのすべてが、社会的な意味では特にマギー時代と切っても切り離せないんだよ。マーガレット・サッチャーとどう向き合うかってことは元セックス・ピストルズとしては大きな命題だったよ。でも、それなりに頑張ったとはいえるんじゃないかな」

僕も亡くなったときに、「祝おう」という気持ちが沸くかと考えると、多分、そうはならないとは思う。
でも、予定通りに退陣したときには、パーティーをしたい気持ちは変わらない。

カテゴリー: BLOG | コメントをどうぞ