1990年の八月、ルー・リード

体調崩しているのは努めて情報集めてなくても、ネット開いたら知らず目に入っていた。人は、生き物は、いつかは逝く。知っていることだし、近年続いていたし・・・

2013年10月27日、Lou Reedが肝臓関連の疾患で死去、享年71歳。

1990年の夏は暑かったのかどうか・・・幼少時から暑くても寒くしてもたいして服装変えずいたの(長袖が半袖、一枚が三昧、ブーツがサンダルという程度に)と、エアコンが苦手なので特に覚えていないが、実家や飲食店でのアルバイトで、以前より少し経済的に懐の暖かった大学生の夏休み、ルー・リードのライヴを初めて観る為に東京へ向かっていた8月の頭。

遡る事、5~6年前。ラジオっ子で音楽に更なる興味持っていた時期、周りに誰も情報源も無く、頼りはラジオと音楽雑誌。何も知らないまま、名盤100選などにも心踊っていた。当然Velvet Undergroundも何枚か選べれていた。いつか、そんな中から何か聴きたいと思いつつ、難波のスターレコード(後のタワーレコード)で選んだ一枚が『Loaded』。そう、うちの近所のレンタルレコード屋にはヴェルベットは置いてなかったのだ。ドキドキして針を落として聴いた最初、なんじゃこりゃ・・・だった。ヒットチャートを足掛かりに、ニューウェーブ、テクノポップからヘヴィメタル、R&Bまで雑多に聴いていた”つもり”当時の僕にも??だった。封印となり、ルー・リードの「Sweet Jane」も、先に聴いていたMott The Hoopleのカヴァーの方がええよな、と思っていたくらいに。

時は過ぎ、十代も終わろうとしたときに偶然中古屋で手にしたのが『Live In Italy』(1983)。これででガツンときてしまった。そして『ローデット』を棚から引き出して聴きまくり、中古レコ屋行くたびにヴェルヴッツやルーのソロ、ジョン・ケイルのレコを安い順から集めて始めた。

そうした中で出た新譜が『New York』。もう主流はヴァイナルからCDへと移っていた。

東京の大学(文字通り東大)へ進学した友人に泊めてもらえばいいやと、大した計画も立てず、8月3日と6日のチケットを手に東京へと向かった20歳の夏休み。幼少時依頼、独りでは初めての東京。開演時間までは会場近辺のレコ屋散策、夕方にはNHKホール着。初めて観たルー・リードのライヴ、実はこの時のことはあまり記憶にない、マイケル・ラスケとルーのギターの聴き分けが楽し過ぎたことくらい。終演後、友人宅を訪ねるも、なんと彼も夏休みを利用して帰省(つまり大阪に!!)していたことを知り、ほうほうの体で、別の伝手で泊まれることに。しかしまだ6日もライヴの予定が・・・結局、6日の夜の宿泊のアテのないまま、何とか会場のNHKホールに再び。寝不足やら何やらで非常眠かった中ではあったが、この夜はルーとジョンによる『Songs For Dorella』のライヴ。亡きアンディ・ウォーホールへのアルバムとそれに伴う、日本でただ一度のライヴ。

アルバムと同じ曲順で、ギター、ヴォーカルのルーと、ピアノ、ヴィオラ、ヴォーカルのジョン。「Hello It’s Me」でアルバムの曲を全て終えた後に、何と両者によるヴェルベッツの「Pale Blue Eyes」、こんなの俺みたいなペーペーが聴いてええんやろか?と思いつつも込み上げるものがとまらない、たまらない。

その後、宿を失ったまま、西新宿を漂い、色々あった末に、始発で帰阪。

93年には『Magic and Loss』のツアーで大阪厚生年金芸術ホール(所謂小ホール・・・)、このときは客入りもあまり良くなくて、開演前にアナウンスで、空いている前の席は好きに詰めていい、とのことで皆が前方へ。緞帳が開いて、いきなりの「Sweet Jane」!! そこからはアルバムから曲をほぼ全曲。素晴らしいライヴ、得難いものだった。この時のベーシストは確かグレッグ・コーエンだった。

その後、新作出る度に買って聴いてたけど、しばし熱は収まっていた。それが再び火が付いたのが2003年の『The Raven』とベスト盤の『NYC MAN』。また良く聴くようになったし、DJでルーやヴェルヴェッツの曲をよく回すようになったのも、この時期から。そして来日、僕が最後に観たルー・リード。バンドの演奏も歌声もだが、このツアーではアントニーと出会えたことがとても大きい。そして、ここからまた少し距離を置くようになっていった。それでも彼から多くの扉を開かせてもらったことは間違いない。その後も作品は出る度にチェックはしてて、2004年の映像作品である『Spanish Fly Live In Spain』でのギタープレイは、ルーがオーネット・コールマン(サックス奏者)のようにギターを弾いてみたいと望んだ60年代から辿り着いた境地のようにも聴こえ、非常に興味深いものがある。余談だけど映画『ブルー・イン・ザ・フェイス』の中で、1958年にロサンゼルスに本拠地を移してしまったドジャースに触れ、ドジャースはブルックリンにあってこそ、と語る姿に、生粋のブルックリンっ子の側面が描かれていて、この点は難波に本拠地としていた(二軍は堺の中百舌鳥)、ホークスが福岡に移ってから、全く応援出来なくなった自らと勝手に重ねたりして面白いものがある。

いまこうして思い出しながら書いてはいるが、やはり初めてライヴに行った辺りまでが、やたら鮮明なこと。もっと細かい出来事などあったはずなんだけど、思い出されるのは、初めて観る為に東京に行ったときのことが多い。

こんな話を年下の友人にすると、羨ましがられる。だけど、僕はザ・クラッシュもボブ・マーリーも観ていない。クラッシュやボブを観た年上の友人もレット゛・ツェッペリンは観ていない。ツェッペリンを観ている知人もマイルスを観てても、ジョン・コルトレーンは観ていない。このループはえんえんと続く。

こうした音楽家は、ある意味で”鬼”のような存在で、生きている間よりも、死んでからの方が話題に出ることが多いように思う。やはり鬼は生きてるうちは、口にするには、はばかれるものもあるのかもしれない。だけど、だけど・・・それでも死んで追悼するのなら生きてるうちに、という思い。

僕も、色々感じながらも、現在Nate Wooleyや秋山徹次の新作レコードが届いたばかりで、現在に聴くものを感じている。これまで有った遺産を、馬鹿にすることなど微塵も出来ないが、こうして偉大な音楽家の訃報を聞くにつれ思うのは、ありがとうという言葉と共に、自らも含めて、生きてるうちにもっともっと・・・

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